色のいろいろ

セザンヌと色彩

セザンヌと色彩

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画家と色彩のシリーズ、前回はゴッホをとりあげました。
今回は、「近代絵画の父」と呼ばれる、ポール・セザンヌ
の形跡をたどります。
ピカソも、唯一の師と呼んでいます。
美術を勉強するときにも、まずセザンヌから、
といわれることもしばしばだと思います。
セザンヌがいなければ、フォービズムもキュビズムも
生まれず、絵画の歴史は異なっていたかもしれません。
セザンヌは前衛運動への扉を開いた人物です。
セザンヌとは、どんな画家なのか、見ていきましょう。

セザンヌの人生ストーリー

セザンヌ
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)は、1839年、
南フランスのエクス・アン・プロヴァンスで生まれた
フランスの画家です。
とても裕福な家庭に育ちます。
父親は帽子の行商人をしていましたが、のちに
地元の銀行を買収して銀行経営者となった成功者でした。
しかし、非常に厳格なタイプで、
セザンヌは父の影におびえながら育ったようです。
父親の希望で法律を一時は志向しましたが、なじめず
画家を志します。

1861年、友人だったエミール・ゾラ(のちの小説家)
の勧めもあり、大学を中退して、パリで絵の勉強を始めます。
画塾アカデミー・シュイスに通い、
カミーユ・ピサロアルマン・ギヨマンらと出会います。
しかし、田舎者らしいふるまいで笑いものにされてしまいます。
成功が遠いと挫折感を味わったセザンヌは1年足らずで、
パリを離れ、父親の銀行で働きながら美術学校へ通います。
が、銀行勤めにもなじめず、再びパリの画塾アカデミー・シュイス
に戻るのです。

この頃に、クロード・モネオーギュスト・ルノワール
らと出会っています。
終生の友人となったフィリップ・ソラーリとも知り合い、
共同生活を送ります。
ドラクロワクールベマネらからも影響を受け、
この時期の作品は、暗く重苦しいエロティックな
ロマン主義的な作風が多く見られます。
ここまでの間、何度となくサロンに出展しますが、
いずれも落選しています。

30歳の時に妻オルタンスと出会ってからは、
エロティックな作風は見られなくなり、
風景画に移行していきます。
とくに、カミーユ・ピサロの影響をうけました。
彼の勧めで、戸外で明るい印象派の手法を使った
作品を制作します。
第1回印象派展とよばれるモネ、ドガらが開いた
グループ展に1874年、出展しますが、
酷評されます。

《首吊りの家》1873年

《モデルヌ・オランピア》1873-4年

第3回印象派展にも出展しますが、
評価されることはありませんでした。

その後、エクスとエスタックに滞在することが
多くなりました。
反対されていた妻子の存在で父親との関係性が
悪化し、仕送りが半減してしまいます。
画材をタンギーの店(ゴッホの絵にも登場する
タンギーさんですね)で買い、代金代わりに
絵を渡すことも多々ありました。
そのセザンヌの絵を、ゴッホやゴーギャンは
研究した、といわれています。
ゴッホはのちに
「前に見たセザンヌの作品が、否応なく心に蘇ってくる。
プロヴァンスの荒々しい面を力強く示しているからだ。」
と記しています。

1882年《L・A氏の肖像》で初めてサロン入選。
43歳の時。
実に第1回印象派展から18年が経っていました。
しかし、この入選も、審査員が弟子の一人を
入選させることができるというギュメの特権を
使ってのものだとされています。

1894年画商のアンブロワーズ・ヴォラール
ピサロの勧めでセザンヌの初個展を開きます。
評判は芳しくありませんでした。
ピサロだけは絶賛していました。
すごい献身的なピサロの引き立てですね。
1900年にパリで開かれた万国博覧会
企画展である「フランス美術100年展」に出品。
1904-6年はサロン・ドートンヌにも出品。
画廊での取り扱いもふえていきました。
1890年代後半くらいから次第に評価が高まり、
晩年は作品が高値で売れるようになっていきました。
最期は、1906年自宅で亡くなりました。

「感覚の実現」と色彩の調和

山
セザンヌは、印象主義でもない、写実主義でもない、
独自の「感覚の実現」を目指します。
複数視点から対象を観察し、脳内で合成した
構図を採用しています。

果物籠のある静物》1888-90年

では、多視点によって対象の存在を際立たせています。
これはのちのキュビズムの手法に先んじる試みでした。

彩色法は「モデュラシオン(色面調節)」を用い、
赤や黄などの暖色の進出性・膨張性と青や紫など寒色
の後退性・収縮性を利用して、対称を立体的に見せて
います。

赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人》1877年

でもその表現方法を見ることができます。

セザンヌは形と色は不可分とし、
「色彩が調和すればするほど、デッサンはそれだけより
正確なものとなる」と言っています。

サント=ヴィクトワール山》1902-04年

暖色・寒色によって、大気や光の空気感までを
感じさせます。これらの色使いは、フォービズム
の感覚的色彩に先んじた表現でした。

20世紀の美術に与えた影響

りんご
人生ストーリーで見てきたように、
生前は輝かし画家人生というものでも
ありませんでした。
しかし、1907年、サロン・ドートンヌの一部として、
「セザンヌの回顧展」が行われ、新時代を担う画家
やオーストリアの詩人リルケなどの関心を集め、
名声が確かなものになります。

後に続く画家たちへの影響はとてつもなく大きく、
多くの画家たちが、セザンヌを研究しています。
アンリ・マティスの色彩による構築にはセザンヌの手法への
理解があったとみられます。
アンドレ・ドランは自身の部屋にセザンヌの《5人の浴女たち
の複製をかけていたと言われ、作品《水浴者たち》には
セザンヌの影響があるとされています。
また、ジョルジュ・ブラックは、自分の絵の中にセザンヌの
要素を取り入れたり、《家々のある風景》でもセザンヌの
手法を元にしながら、自身の表現を切り開いています。

まとめ

セザンヌは、神経質で疑り深く変わり者
だったようですが、他人に流されず、
独自の道を黙々と探究し続けたからこそ、
開拓者として後々ずっとリスペクトされるような
功績を残せたのだということがわかります。

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