色のいろいろ

ドラクロワと色彩

ドラクロワと色彩

ドラクロワ1
画家と色彩シリーズ、前回はセザンヌ
をたどりました。20世紀の画家に多大なる
影響を与えたセザンヌが賞賛していたのが
ドラクロワです。
今回は、その魅力がどんなところにあるのか
みていきましょう。

ドラクロワの人生ストーリー

民衆を導く自由の女神
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ

(Ferdinand Victor Eugène Delacroix)(長い!)は、
1798年、
パリ近郊のシャラントン (現在のサン=モーリス)
に生まれました。
父親はシャルル・フランセーズ・ドラクロワとなっているが、
本当の父親は政治家のタレーランだといわれています。
外見や性格はタレーランと似ていて、信憑性も高いと
されています。
タレーランはシャルルの友人であり、外務大臣の後継者
でした。
ドラクロワはタレーランから保護されていました。
タレーランはナポレオン失脚後の1830年に
ルイ=フィリップ1世の即位に貢献し、
最終的にはイギリスのフランス大使として仕えた人です。
母親は、ヴィクトリア・ウーベン、家具職人の娘でした。
ドラクロワには上に3人の兄妹がいました。
兄のシャルル・アンリ・ドラクロワ(1779-1845)は
ナポレオン軍の軍司令官まで昇進した人物です。

ドラクロワは、画家ピエール=ナルシス・ゲラン
(Pierre-Narcisse Guérin) のもとで本格的に絵画を
学びます。古典絵画に夢中になりました。
初期の作品は、

《収穫期の処女》1819年

《聖心の処女》1821年

などがあります。

1822年、『ダンテの小舟』で先輩画家の
アントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦もあり
サロン(官展)に入選します。

1824年のサロンには、『キオス島の虐殺』を出品
します。実際に起きた生々しい題材で描いた作品は
賛否両論を巻き起こします。
前回サポートしてくれていたグロは、
「これは絵画の虐殺である」とまで酷評しました。
しかし、最終的にはリュクサンブール美術館が購入
となりました。

ドラクロワの最も有名な代表作
民衆を導く自由の女神》(1830年)

は、7月革命を題材としているが、
出来事を称賛するというよりも、
フランスの人々の自由の精神をイキイキとした構図によって
明確に伝えようとしました。
フランス国旗を右手で掲げ民衆を導く女性は、
フランスのシンボル的な存在として描かれています。
当時、政府の機関であったアカデミーは、万人に共通する
唯一絶対の「理想美」を実現すべきであるという新古典主義
のスタンスをとっていたが、ドラクロワは、
「自己にのみに秘められているものを追求し、
発掘することが芸術の目的」とする個性美を主張しました。
当時は激しい批判の的になりますが、次第に芸術活動の
流れは個性美のほうに傾いていくのでした。
この絵画は彼の肖像と共に、旧フランス・フラン
100フラン紙幣に描かれたこともありました。

1832年ドラクロワは、モロッコ外交使節団の記録画家として
スペインや北アフリカを旅行しています。
プリミティブな文化に対する興味は旺盛だったようです。
北アフリカの人々のドローイングや絵画を数多く制作する中で、
北アフリカ人の服装や態度に古代ローマやギリシアの人々たちとの
共通性を見出します。
「カトーやブルータスのような白い布で身を包んだ
アラブ人たちを見ると、ギリシアやローマへの扉はここにある」
と述べています。

アルジェの女たち》1834年

は、アルジェリア現地の女性のスケッチをもとにした
作品です。イスラム教徒の女性は顔を隠す規律があったため、
このように開放的なムスリムの女性を探すことは
難易度が高かったようです。

モロッコのユダヤ風結婚式》(1837-41年)

北アフリカ在住のユダヤ人女性の絵画を制作することは
それほど問題なかったようです。

1830年代以降は、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、
政府関係の大建築の装飾を数多く手掛けていきます。

激怒のメディア》(1838年)

パリ・サロンに展示し、議論を巻き起こします。
ギリシア神話のシーンで、洞穴に隠れている子どもを
抱えるメディアに光が射し込んでいる様子を描いています。
作品は国がすぐに購入しましたが、ドラクロワはリール
宮殿美術館に送られたのでがっかりします。
ドラクロワはルクセンブルクに《キオス島の虐殺》や
ダンテのバーク》があるパリのリュクサンブール美術館に
飾られることを期待していたからです。
1862年にドラクロワは国民美術協会の設立に参加します。
友人で著述家のテオフィル・ゴーティエが委員長で、
画家のエメ・ミレが副委員長となります。
しかし、ほどなくして、体調がどんどん悪化してしまいます。
自身でも寿命が長くないことを自覚し、大事な持ち物を
整理しはじめます。
家政婦のジェニー・ル・ギィユーへの信頼は厚く、
献身的にドラクロワの生活や晩年の作品制作の手伝いをしました。

1863年死去。遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。
1863年にドラクロワが亡くなった直後、協会はドラクロワの
248点もの絵画やリトグラフ作品を展示する回顧展を開催しました。
アトリエ兼自宅は、国立のウジェーヌ・ドラクロワ美術館
となっています。

ドラクロワの補色使いと灰色

grey
ドラクロワは、モロッコやアフリカ、地中海などの旅行でみた
光と色彩は、その後の創作活動にとって貴重な体験となりました。
光の反射によって変化する影の彩色と補色のコントラスト
の表現につながっていきます。

ドラクロワは、単調な色を避けて、光の混合を描きました。
「赤」を表現する際に、赤単色を使うのではなく、
オレンジに近い赤や紫に近い赤を重ねて、色の振動や
力の強弱を表現しました。
影は、補色を用いて表現しました。
補色は眼で混ざり合い、灰色の色調として見えます。
灰色を単色として使うのではなく、有彩色によって
表現される灰色は、上質で光沢のある灰色として
表現され、新しい色彩表現の元となりました。
ドラクロワは日記に
「あらゆる絵の敵は、灰色である」
と記しています。

ドラクロワと音楽

music
ドラクロワは、6歳で音楽に目覚め、人生の間
創作活動に音楽は大きな影響を与えていました。
本人は、
「音楽と比べれば何でもない。音楽のおかげで
比類のない色合いを表現できている」
とまで言っています。

特にショパンやベートーベンの音楽からインスピレーション
をうけていました。
画面の効果を全体的に把握しながらスピード感をもって描きだす
スタイルは音楽的と言われています。

まとめ

ドラクロワといえば、《民衆を導く自由の女神》
が象徴的に想起されますが、
ドラクロワの絵をみるときには、
灰色の表現に注目してみるのも、
彼独自の表現のこだわりが、
よりみえてくると思います。

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