クロード・モネと色彩
画家と色彩のシリーズ、前回は、ジョルジュ・スーラ
を取り上げました。
今回は、印象派で日本でも大人気のクロード・モネ
を紹介します。
クロード・モネの人生ストーリー
クロード・モネは、1840年11月14日、パリ9区で生まれました。
1845年に、モネの家族はノルマンディーのル・アーヴルへ移ります。
父親は義兄が富裕な雑貨卸業を営んでいたこともあり、モネにも
船舶雑貨商や食料商売の道へ進むことをすすめたが、
モネは芸術家になることを志望しました。
母親は歌手だったこともあり、モネが芸術家になるのを
後押ししてくれました。
1851年、モネはル・アーブル美術学校に入学します。
モネはこのころすでに10〜20フランでカリカチュアが売れていました。
1857年、母親が死去。モネは学校を退学し、叔母と住むことになります。
叔母はモネをアトリエに入れて美術の勉強を続けるように励ましました。
風景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会い、
油絵を勉強しようと誘われたことから、モネは油絵に取り組み始めました。
モネは兵役へ行きますが、病床に臥せ、途中で除隊します。
その後、パリへいき、美術学校に入りますが、
ありのままに描いてしまっては醜いので、
古代美術を念頭に様式化して描くという指導法に、
自然をありのまま描くことというブーダンやヨンキントの教えに
心服していたモネは、賛同できませんでした。
1865年のサロン・ド・パリに、
《オンフルールのセーヌ河口》
《干潮のエーヴ岬》
を初めて出品し、2点とも入選します。
さらに
1866年もサロンに、
《緑衣の女》
《シャイイの道》
も2点とも入選します。
しかし、1867年のサロンに応募した大作、
《庭の中の女たち》
は、落選してしまいます。
庭で毎日同じ時間に作業をし、天候がかわると中断して、
光の状態に敏感に描いたため、かなりの時間をかけた
渾身の作だったにもかかわらず、審査員からは、
絵筆の跡があらわになっている点がネガティブに
受け止められてしまいました。
1860年代後半から、モネや価値観を同じくする画家たちは、
サロン・ド・パリの展示会を企画する芸術アカデミーから、
出品を拒否されるようになっていきます。
1870年、ながらく父親から反対されていたが、
ようやくカミーユと正式に結婚。
1874年 第1回印象派展
画家30人が参加。
モネは、
《日の出、印象》1872年
《昼食》1868年
《キャピュシーヌ大通り》1873年-1874年
ほかを出品しました。
開会後、美術批評家のルイ・レロイが、『ル・シャリヴァ』紙上で、
マネの絵画のタイトルから「印象派展」という見出しを付けて、
展覧会のレビューを掲載します。
内容は酷評だったが、彼の酷評レビューをきっかけに、
「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、
印象派の画家たち自身によっても使われるようになりました。
1876年妻のカミーユが子宮がんで亡くなります。32歳でした。
そして、
《カミーユ・モネの死の床》
を描きました。
1880年、はじめてモネの個展が開催されました。
《解氷》
など、17点が展示され、メディアの評価も上々、
モネは英雄的な存在として扱われました。
1881年には、大口の定期的な契約がデュラン=リュエル
との間で結ぶことができ、経済的基盤がかなり安定、
印象派展やパリ・サロンへのの出品の必然もなくなりました。
フランスの田舎の風景や海景を多く制作していきます。
光の変化に注目し、繰り返し同じ風景を描きました。
1886年、デュラン=リュエルは、ニューヨークで
「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、
モネの作品40点余りを出品しします。
展覧会は好評で、この展覧会で、モネを筆頭に、
印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受ける
ことになります。
1892年、カミーユの死後、支えてくれていたアリスと再婚。
モネはジヴェルニーに家と庭を確保します。
ここでもデュラン=リュエルが引っ越しや生活をサポートします。
「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭もつくります。
この「水の庭」はこの後数多くモネの作品に登場することになります。
《睡蓮》第1シリーズ ー1900年
《睡蓮》第2シリーズ ー1900年後半
1911年2番目の妻アリスも死去。
この頃から、モネは白内障になりはじめていました。
その後、2度ほど手術を受けるも、視力は徐々に弱っていく中、
モネは描き続けました。
1926年、86歳でモネは亡くなりました。胃がんでした。
1980年、クロード・モネ財団により、モネの家と庭は復元されて
一般公開されるようになりました。
暗く濁った色の追放
モネは、自然の色を描く際に、パレット上で混ぜ合わせることなく、
キャンバスに筆触を並置する「色彩分割」の手法をもちい、
離れてみると混ざり合ってみえる「視覚混合」 の効果を活かすことで、
色を混ぜたときに暗く濁って明るさを失う減法混の現象を回避しつつ、
個々の純度を保ちつつ、同じ効果を狙いました。
モネは、光こそが、事物の色調を決定すると考えて、すべてを光の効果に
置き換えて描こうと試みました。これはまさに絵画の視覚革命でありました。
まとめ
《睡蓮》だけでなく、《積藁》や《ルーアン大聖堂》でも
モネは光に注目し、同じ素材を幾度となく、描き続けています。
モネの眼を通してみる光の変化の表現に人々は今もなお人々は惹きつけられて
やみません。